2024.04.07

 

 マルコによる福音書8:1~10 

 列 王 記 下 4:42~44

 

 今日は、主イエスが4千人を養われた場面です。

「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので」、主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」群衆を思いやる主イエスの姿が描かれます。しかし、弟子たちは答えます。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」非常に現実的な答えです。空腹は気の毒だと思うけれども、どうやってパンを手に入れるのか。かつて主イエスが5千人を養われたことは忘れ、目に見える現実の中で答えています。主は尋ねます。「パンは幾つあるのか。」「7つあります」と弟子たちは答えました。そこで、主イエスは群衆を地面に座らせ、7つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてパンを裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせました。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、その魚も配らせました。すると、人々は食べて満腹しました。残ったパン屑を集めると、7籠になりました。主イエスは、群衆を解散させ、舟に乗ってダルマヌタの地方に行かれました。

わずかな食べ物で群衆を養う出来事は、マルコによる福音書630節以下の5千人を養ったのに続き2回目です。しかし、この2つの出来事には違いがあります。6章の方では、5つのパンと2匹の魚で男5千人を養われました。この時はユダヤ人の住む地域にいましたので、ユダヤ人が主イエスの周りに集まっていました。それに対し、今日の場面は7つのパンと小さい魚で、4千人が養われました。この4千人は異邦人です。マルコによる福音書は724節から、異邦人に救いが広がっていったことを告げています。そのきっかけが、シリア・フェニキアの女性です。幼い娘が汚れた霊に取りつかれていたので、ティルス地方にいた主イエスのもとを訪ね、娘を助けてほしいと願いました。この時主は、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました。しかし女性は、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言って、諦めませんでした。そこで主は、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われ、その通り、幼い娘はいやされていました。ユダヤ人ではない異邦人の女性が救いにあずかった。ここが転換点となり、731節以下ではデカポリス地方で耳が聞こえず、舌の回らない異邦人がいやされ、そして今日の場面につながります。デカポリス地方は異邦人が住む地域で、ガリラヤ湖の南東にあります。731節以下と今日の御言葉は、デカポリス地方で起こったことです。主イエスは、飼う者のいない羊のようなユダヤ人を憐れんで養われたように、異邦人をも憐れみ、養われる。民族の違いにこだわらず、飼う者のいない羊のようにさ迷う人間を憐れみ、養う方であると告げます。

そして、わずかな食べ物で大勢の人を養うところに、神の働きを見るよう、御言葉は招いています。今日最初にお読みした列王記下4章は、神の人エリシャの物語です。列王記上では、エリヤという預言者が登場し、この人は「神の人」と呼ばれ、神でなければなし得ないような力ある業を行いました。このエリヤの後継者が、エリシャです。列王記下2章には、エリヤが火の戦車に乗って天に上げられ、その最期の姿をエリシャが見たこと。またエリヤの外套が落ちて来てエリシャが拾い、その外套でヨルダン川の水を打つと、水が左右に分かれ、エリシャは渡ることができたことが告げられます。そして、他の預言者がエリシャを見ると、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と告白して、エリシャは預言者集団をまとめていく存在となります。その後、神の人エリシャはさまざまな奇跡を行います。不毛な地の水を清めて人々を助け、涸れた谷に水が溢れさせ、戦いに勝利させたりしました。また、やもめの借金返済のために油を増やして負債を支払わせることもしました。また、死んだ息子を生き返らせ、飢饉の時には食べるのに有毒な草を無害なものに変え、その行為が、エリシャが神から遣わされた預言者であることを示しました。その力ある業の一つが、今日最初にお読みした442節以下です。初物の大麦パン20個を持って来る人がいました。エリシャは召し使いに、「人々に与えて食べさせなさい」と言いました。しかしそこには100人の人々がいました。パン20個をどうやって100人に分け与えるのかと召し使いが尋ねると、「彼らは食べきれずに残す」という主の言葉を伝え、人々に与えるよう命じました。すると、主の言葉通り100人は食べきれずに残しました。ここにも、エリシャが「神の人」であること、神の力がエリシャに働いていることが明らかにされています。

このエリヤ、エリシャの物語を背後にもちつつ、福音書は、「主イエスは神の子である」と告げます。神の力を与えられた人間ではなく、神の子である。エリシャが20個のパンで100人を養ったのとは違い、7つのパンで4千人を養った。エリシャは主の言葉を伝え、主の言葉通りに100人は養われましたが、イエスは自らパンを取り、感謝の祈りを唱えて配らせ、群衆を満腹にしました。神そのものであり、人々を養い満たす方であることを告げます。主イエスの語った言葉がその通りになり、主の力ある業が人々に救いを与えます。そしてこの主の眼差しは、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも注がれています。つまり、神が造られた人間すべてに、主の目は注がれています。そして、すべての人を養い導く「羊飼い」となられます。

今日の御言葉は、さ迷う人間に、集まるべき場所は、主イエスのもとであると知らせます。主のもとには、命の水とパンがあり、人々を潤し、満たします。満腹し、満足する場所は、主イエスのもとであると伝えます。そして、この知らせを伝える務めが、教会に与えられています。教会が伝えるべきは、本当に自分が満たされるのは神の子主イエスのもとにおいてだけだということです。私たちは神によって造られたので、神を知り、神と共に生きる時にもっとも自分らしくいることができます。もちろん、美味しい食べ物でお腹を満たしたり、人から評価されて充実した人生を送るという側面もあります。この世での生活はとても大事で、与えられた家族や友人と共に、この世の生をしっかりと生きることは、神を信じて生きることと矛盾しません。禁欲的な生き方が信心深い生き方ではなく、何事も感謝し、神のために生きることが信仰者の生き方です。教会に来て、御言葉を聞く。主イエスと出会い、聖なる交わりにあずかることで、自分らしさを回復し、充電されます。

 

礼拝は、自分を中心とした世界から離れ、神を中心とした世界に入ることです。日々の生活では、自分が造り上げた世界の中を生きていますが、その世界から外に出て、神の支配下に自分を置くこと。それが、礼拝です。この聖なる空間に身を置くことが、自分を造り変え、新たな力を与えます。日曜日に礼拝に参加することが、自分を潤し、満たします。礼拝が神に造られた自分らしく生きる生活の源であることを、新年度の始まりに確認したいと思います。そして、私たちに与えられている務めは、教会しか与えることのできない救いを伝えることです。礼拝が人間を満たすものである。主イエスのもとに集う時に、私たちは自分らしさを取り戻し、自分の進むべき道を確認することができる。礼拝の特別さを改めて覚えたいと思います。そして、一人でも多くの方を礼拝へと招く歩みを続けていきたいと思います。

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