2024.04.14

 

 マルコによる福音書8:11~21 

 詩  編 119:169~176

 

 今日の御言葉は、弟子たちの心の鈍さを強調しています。

ます、ファリサイ派の人たちが主イエスのもとに来て、主を試そうとしてしるしを求めました。「天からのしるし」とは、主イエスが神から遣わされた者であることのしるしです。旧約聖書でエリヤが旱魃の時に雨を降らせたり、エリシャが天から火を降らせたように、神の人であるしるしを見せてくれれば自分たちは信じると、主を試そうとしました。すると、主は心の中で深く嘆かれ、そして言われます。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」主イエスが深く嘆かれたのは、人々の不信仰です。主を試そうとしてしるしを求めるのは、真剣に信じたいからではなく、からかいの意味が含まれています。主イエスは、必死に助けを求める人の願いを聞かれ、悪霊を追い出したり、病をいやすしるしを行われました。求めている者には、応えられます。しかし、かつて故郷のナザレに行った時、故郷の人たちは主につまずきました。「この人は、大工ではないか。マリア息子で、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟ではないか」と自分の知っているイエス像に囚われて、主の力ある教えに心を開くことができませんでした。この不信仰ゆえ、主イエスもわずかの病人に手を置いていやされただけで、ほかの奇跡は行いませんでした。主を信じたいと願う者にしるしは与えられ、願わない者には与えられません。主は、ファリサイ派の人たちをそのままにして、また舟に乗り、向こう岸へ行かれました。

移動中、弟子たちはパンを持って来るのを忘れたことに気づきました。舟の中には一つのパンしかありませんでした。その時、主は言われます。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデ派のパン種によく気をつけなさい。」弟子たちは、自分たちがパンを持って来るのを忘れたから、主が戒められたのだと思いました。自分たちが気にかかっていることがあると、まったく関係のないことであっても、自分の関心の中で聞いてしまう。本当に主が言おうとしていることではなく、自分たちの気になっている点で解釈し、聞こうとする人間の聞き方にについて鋭い洞察をしています。主は弟子たちの思いに気づいて言われます。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。」畳みかけるように、弟子の無理解を強調します。つい最近、弟子たちは4千人の異邦人が7つのパンで養われたことを体験しました。その前にも、5千人の男が5つのパンと2匹の魚で養われた時にも居合わせました。ただ、居合わせただけでなく、弟子たちは主が祝福したパンや魚を群衆に配るという役目も果たしました。奇跡を行う側に立ち、一部にあずからせてもらっていました。しかも、残ったパン屑を集めると、12の籠、7つの籠にいっぱいになりました。わずかな食べ物で群衆を養った主イエスが、共におられます。パンが一つしかないと焦ることではなく、またそれを主が咎めたと取るのではなく、もっと深いことを主が言おうとしている。そう気づくべきでした。しかし、弟子たちの心は鈍く、頑なです。自分の狭い関心事にしか考えが及ばず、主イエスが伝えようとしていることに心と耳を開くことができませんでした。

主が伝えようとされたのは、不信仰に気を付けなさいということです。ファリサイ派の人々のパン種は、その不信仰さ。パン種がわずかな量でパン全体を膨らませるように、わずかの不信仰がその人全体に及び、主を信じさせなくします。不信仰は妬みや憎しみと絡み合いながら大きくなり、やがては殺意へと至ります。マルコによる福音書36で、すでにファリサイ派の人たちとヘロデ派の人たちはどのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めています。このファリサイ派とヘロデ派がペアとして登場するのは、3章と今日の8章、不信仰と殺意が密接不可分であることを示します。そして、この不信仰は他の人にも移っていきます。始めはファリサイ派とヘロデ派だったものが、祭司長や律法学者、長老たち国の指導者に膨らんでいき、最後は群衆にまで広がっていきます。今日の御言葉の後、831以下には初めて受難予告がなされます。ファリサイ派の人たちのパン種が主イエスの受難につながっていく。その不信仰はどんどん広がり、やがては主イエスを十字架刑に至らせる。弟子たちもその渦に巻き込まれる。だから、気を付けなさいと言われます。

主イエスは、弟子たちの不信仰、心の頑なさをよくご存じでした。不信仰だからしょうがないとあきらめるのではなく、気を付けなさい、備えていなさいと弟子たちの心を目覚めさせようとしています。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目が合っても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」しつこいくらい言葉を積み重ね、弟子たちの心を呼び覚まそうとしています。それほどに、弟子たちの心が鈍くなっているということですが、それがマルコによる福音書を聞く一人ひとりの現実であることを御言葉は示そうとしています。

 

だからこそ、私たちは詩編の詩人の言葉を今日合わせて聞きました。詩編119169「主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。」御言葉をあるがままに理解することは難しいことです。自分の考えや解釈がすぐ入って来て、あるがまま受け取ることを邪魔するからです。詩人は神の御言葉、それは119編では掟、戒め、命令、律法、裁きと言葉を変えて表現されていますが、神の意志が示されたものをあるがままに受け止めさせてくださいと願っています。神の言葉をあるがまま理解させるのは、神の働きかけが必要です。神が聖霊を送ってくださらなければ、こうして御言葉を聞き、主を賛美する礼拝をささげることはできません。教会の暦では、イースターの後、今は主イエスが弟子たちに現れて、確かに復活されたことを知らせておられる時期です。この時主は、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。また、「エルサレムに留まって、父が約束されたものを待ちなさい」とも語られました。主イエスの復活は昇天に、そして助け主なる聖霊の降臨につながっていきます。私たちは、父なる神とイエス・キリストが遣わしてくださる聖霊によって、今信仰者として生き、また礼拝をささげることができています。心の鈍い私たちを目覚めさせるのは、聖霊の力によります。私たちは詩編の言葉に合わせて、「御言葉をあるがままに理解させてください」と祈る者でありたいと願います。

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