2024.03.31

 

 マルコによる福音書16:1~8 

 出エジプト記13:17~22

 

 今日主イエスは、死からよみがえられました。私たちは、この主の復活をこうして祝っていますが、最初に復活の出来事を知った人たちは恐怖を感じたと今日の御言葉は告げます。

 主イエスが十字架につけられたのは金曜日、その翌日が安息日でした。安息日には物の売り買いなどが禁止されていましたので、安息日が明けてすぐに、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは主イエスの体に塗るための香油を買いに行きました。そして週の初めの日、日曜日の朝早く、3人は主イエスのお墓に行きました。当時のお墓は、岩をくり抜いたところに遺体を納め、入り口を大きな石で塞ぎました。その重くて大きな石を、だれが転がしてくれるでしょうかと話し合いながらお墓に行くと、石はすでにわきへ転がしてありました。お墓の中に入ってみると、白い長い衣を着た若者が右手に座っていたので、女性たちはとても驚きました。この若者は主の使いで、神の言葉を告げるためにここにいました。そして言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」主イエスは復活されたから、もうお墓におられない。死んだ人が葬られるお墓にいらっしゃらず、生きておられるのだと告げました。そして、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」ガリラヤは、主イエスと弟子たちの活動の出発点です。かつて伝道が始まった場所にもう一度集まり、そこから新たな時が始まると告げます。しかし、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはお墓を出て、逃げ去りました。恐怖のあまり震えあがり、誰にも何も言いませんでした。主の使いが話したことすべてが受け入れ難く、その場から逃げていきました。

マルコによる福音書は、ここで終わります。聖書にはこの後「結び一」、「結び二」とありますが、これは後から加えられたものと言われています。元々の終わり方が唐突なので、後の教会が補足したと言われますが、マルコの終わり方は「終わりのない終わり」で、そこに意図があります。それは、聞いた者がそれぞれ応答して物語が終わるということです。一人ひとりが、3人の女性たちのように空っぽのお墓の中に入り、主が復活されたという言葉を聞く。そしてガリラヤでお目にかかれると言われ、その後どうするか。あなたはどうするかと迫っています。

マルコによる福音書は、人間のありのままの姿を描き出します。12人の弟子たちは一番近くで主の業を見、教えを聞きましたが、本当には主イエスを理解することができず、また主が捕まった時には全員が逃げ出しました。後で、ペトロだけは戻って来ましたが、主イエスの仲間だと言われると、そんな男は知らないと三度も否定しました。今日出てきた3人の女性も、主イエスの十字架を遠くから見守り、主が死んだ後もその場を去らずに、お墓に葬られるところまで見届けました。今日は主の体に香油を塗ろうとお墓へ行き、その意味では主から離れず、従い続けた人たちです。けれども、復活の知らせを聞いた時、恐ろしくてその場から逃げ去りました。弟子たちとペトロに告げなさいと言われていましたが、誰にも何も言いませんでした。人間の弱さ、不信仰などをありのまま描いています。しかしその弟子たちに、「主イエスは復活なさった。あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおりに、そこでお目にかかれる」と語りかけます。主は、弱さを抱えた弟子たちをガリラヤで待っておられます。もう一度、御自分のもとに来るようにと招いています。ちょうど、最初に弟子たちを招いた時と同じように、「わたしに従いなさい」と呼びかけておられるのです。そして多くの弟子たちの中で、12人だけが特別に使徒として立てられ、悪霊を追い出す権能を授けられ、宣教に遣わされました。主イエスのもとに集まり、力を授けられて主の弟子として生きていく。主のもとに集まり、そこから派遣されることが弟子として生きることの出発点であることを思い起こさせます。

また、主の復活は「かねて言われたとおり」のことです。主は復活のことを何度も告げておられました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」8章から10章の間に3回も言われました。3回言うことは、確実に起こることを意味しますので、十字架の死、そして3日目に復活することは確実に起こると告げられていました。この主の言葉を思い出して、もう一度主のもとに集まるようにと招かれています。

主イエスは、私たちの先を行き、私たちを導いてくださるお方です。そのことをはっきりと伝えるのが、今日最初にお読みした出エジプト記の「雲の柱・火の柱」です。出エジプト記では、エジプトで奴隷であったイスラエルの民がエジプトを脱出し、約束の地に向かって進んでいるところです。エジプトからパレスチナに向かう一番近い道は、海沿いの道ですが、今紛争が起こっているガザの地域はペリシテ人が住んでいて、そこを通る時には戦いが起こる。しかし今まで奴隷であったイスラエルは戦う術をもたず、戦うと知ったら恐ろしくてエジプトに戻ろうとするから、神は遠回りで戦いの少ない荒れ野の道を進ませました。そして、神はイスラエルに先立って進み、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれたので、イスラエルは安心して昼も夜も進むことができました。雲の柱がイスラエルを離れることはなく、絶えず先頭に立って導きました。この雲の柱が示すように、神は側にいて導かれる方です。遠く先に行き、こっちに来なさいと呼びかけるのではなく、すぐ側で守るようにして、私たちを導かれる方です。出エジプト記では14章になると、イスラエルの後方からエジプト軍が追っかけて来て、前は海、後ろはエジプト軍、絶体絶命の状況に置かれる場面があります。その後海が二つに分かれる奇跡が起こりますが、この危機的な状況の時、雲の柱はイスラエルの後方に回って、エジプト軍が近づかないようにされました。神が後方にいてエジプト軍から守られたから、イスラエルは分かれた海の中を渡って向こう岸に着き、完全に自由の民とされました。このような確かな守りの中を、イスラエル、そして私たちは生きています。

 

私たちもそれぞれ信仰の道を進んでいます。今日信仰告白した人は、今日からその信仰の歩みが始まり、それは一生涯続く道ですから長い道のりとなります。今回、教会員がいつ受洗して、受洗後何年信仰生活を送っているかを調べたのですが、一番長い方は77年でした。それだけ長生きしているということでもあるのですが、神さまの守りがあることを思います。一人ひとりそれぞれの信仰の歩みがあり、それはどれも固有のものですが、すべてに共通しているのは神さまが共にいてその歩みを導かれたということです。いろいろあったけれども、今日、こうして一緒にイースター礼拝をささげていることは、神さまの招きがあり、私たちがその招きに応えたということです。神の招きと応答の繰り返しで、信仰生活は成り立っています。神は、私たちが弱さを抱えていることを御存じの上で、側にいて、先導されます。特に主イエスは、今日死んでよみがえられました。死を超えて、私たちを神の国まで導くことがおできになります。これからあずかる聖餐が示すように、神の国で神と親しく食事をする日まで、私たちを導かれるお方です。私たちを待っておられる主のもとに、私たちは向かって行きたいと思います。明日から4月、新年度が始まりますが、主の招きに応える群れとして、いつも主のもとに集い、主から力をいただいて、それぞれの信仰の歩みを続けていきたいと願います。

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