2024.04.21

 

 マルコによる福音書8:22~30

 詩  編 119:129~136

 

 今日の御言葉は、主イエスという方によって「はっきりと見えるようになる」と告げます。

ベトサイダに着いた主イエスと弟子たちのところに、一人の目の見えない人が連れて来られました。主イエスにいやしていただきたいと人々は願いました。そこで、主はこの人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾を付け、両手をその人の上に置きました。人をいやす時に、村の外へと連れ出すのは、救いの業が1対1の個人的なものだからです。731以下でデカポリス地方におられた時、耳が聞こえず、舌の回らない人が主のもとに連れた来られた時も、主は同じようにその人を群衆の中から連れ出されました。自分の力を見せびらかすためにいやすのではなく、また不特定多数の人を驚かすために奇跡を行うのでもなく、ただ目の前の人をいやすことが、主イエスの目的でした。失われた者を、もう一度神さまのもとに取り返すために働いておられるのが、主イエス・キリストです。目の見えない人が見えるようになり、父なる神さまと共に生きるようになることを願って、主はその人だけを連れ出します。

しかし今日の場面は、その他の奇跡の場面と異なる部分があります。それは、一度で完全に見えるようになったのではないということです。先ほど挙げた731以下の場合は、耳が聞こえない人の両耳に主の指を差し入れ、それから唾を付けてその人の舌に触れられた。そして天を仰いで深く息をつき「エッファタ(開け)」と言われると、耳が開き、舌のもつれが解けました。1回の行為で完全にいやされました。5章まで遡ると、12年間出血の止まらない女性が主の衣服に触れるとたちまち出血が止まり、病気がいやされたと告げられていました。死んだヤイロの娘も、主が娘の手を取り、「タリタ、クム」と言われると少女は起き上がり、生き返った。圧倒的な主の力を告げていました。しかし今日の御言葉は、最初に主が手を置いた時、その人の目が開かれて見えるようになった。しかし、主が「何か見えるか」とお尋ねになると、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えた。今まで何も見えなかったところから、見えるようになった。目は開かれた。ただ、人が木のように見えると語っていて、はっきりとは見えていないことが示されます。そこで、主イエスはもう一度、両手をその目に当てられました。すると、よく見えてきていやされ、何でもはっきりと見えるようになりました。2回のいやしの業で、はっきりと見えるようになった。これが、今日の御言葉が伝えたいことです。

この次の場面で、主イエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリア地方に行かれます。その途中で、主は弟子たちに尋ねられます。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」、それぞれの人が自分の思うイエス像を語っていると答えます。主は改めて弟子たちに尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」真正面から弟子たちに問いかけておられます。すると、弟子を代表する形でペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」洗礼者ヨハネの生まれ変わりやエリヤの再来ではなく、神から遣わされた救い主だと告白します。このメシアという言葉には、旧約聖書で預言されていた救い主という意味が込められています。ダビデの末から出て、イスラエルの王座を固く据える方が来られる。エッサイの株から一つの芽が萌え出で、主の霊がその枝にとどまる。このメシアは、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する正義を見に帯びた方だと告白します。これは、正しい告白です。弟子たちは主の姿を正しく捉えています。しかし、完全に正しいわけではありませんでした。

この後主は、御自分が苦しみを受け、殺される。三日の後に復活することになっていると弟子たちに告げられます。これを聞いてペトロは、主をいさめました。そんなことがあってはならない。何をおっしゃるのですかといさめ始めたので、主はペトロに対して「サタン、引き下がれ」と言われます。弟子たちが思い描いていたメシアは、力を振るってイスラエルを再建する救い主でした。正義と真実を腰に帯びた英雄のような救い主を思い描いていた。しかし主イエスは、苦難を受け殺されるメシアだと伝えます。主イエスが救い主として遣わされたのは、私たちが受けるべき裁きを代わりに受けるためでした。神の子が人となり、人間の弱さをすべて担ってくださった。そして、十字架の呪いの木にかかって死なれることで、すべての人の罪を償われました。この罪の償いが、私たちを神のもとに取り返す業であり、神が望まれていた救いです。目に見えるイスラエルの再建ではなく、すべての人を神のもとに取り返し、神の国に入れる。そのような救いを神は与えようとされ、神の子イエスを遣わされました。神と等しい方がもっとも力のない者となり、徹底して低い所に下られた。力を捨て、無力なったところに本当の救いが起こります。しかし、弟子たちには、まだその主の姿を見ることができませんでした。今日目の見えない人が、最初に手を置かれた時にはっきりとは見えていなかったように、弟子たちもまだはっきりとは見えていません。本当に主の姿を見るためには、主の十字架の死、そして復活が必要でした。さらに言えば、聖霊が降ってこそ、本当にはっきりと見ることができます。

ベトサイダでの目の見えない人のいやしと、弟子たちの信仰告白が隣り合わせにおかれていること。またその続きに、受難予告を受け入れられない弟子たちの姿が描かれるのは、信じることには段階があることを伝えるためです。一回限りの出来事で、主イエスのことが本当によく分かり、信じることができるのではなく、一旦信じた時にもそれは不十分なものであり、信仰はさらに成長していきます。自分は見えているつもりでも、見えていないかもしれません。信仰の事柄については、完全、完璧ということはなく、いつも欠けがあります。その欠けを自覚することが、弟子たちを始めすべての信仰者に求められています。詩編の詩人は、こう祈ります。詩編119130「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」御言葉が自ら開かれることで、無知な者に理解を与えます。こちらの努力で到達できるのではなく、御言葉の方が自らを開いて、私たちに降り注ぐことで、私たちは御言葉を理解できます。さらに詩人は求めます。119135「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。」神が私たちに御顔を向けてくださることで、私たちは神を知ることができます。神が掟を教えてくださることで、私たちは知ることができます。徹底して、神の働きかけが、信仰には不可欠です。自分の中に御言葉はなく、からし種一粒ほどの信仰もないのが現実です。しかし、神が御言葉を語り、信仰を与えてくださるから、私たちは信じることができ、信仰生活を続けています。主イエスが手を置かれなければ、はっきりと見えるようにはなりません。主イエスが目を開いてくださるから、私たちはいつも主が共におられることを知ることができます。不十分な信仰しかもっていないことを自覚しつつ、だからこそ、主の助けを祈り求めつつ、歩む者でありたいと願います。

 

主は今日、2回口止めをされました。目の見えない人に対して、また弟子たちに対して。それは、一人ひとりが主イエスと出会い、信仰を告白するようになるためです。マルコによる福音書では繰り返し、主は御自分の神の子としての姿を示された時に、それを言わないよう口止めをされます。人から伝え聞いただけでは、信仰には至らないからです。自分が信じるためには、主のもとに行って、主と出会うことが必要です。主イエスの名前を知っている。どういう業を行ったか知っている。そのような知識に留まるのではなく、自分を救ってくださったお方として信じて従う。その信仰を求めておられます。常に求めることが、信仰には欠かせません。求めれば、求めるほど与えられるのが、信仰です。いつも神の言葉を慕い求める一人ひとりでありたいと願います。そして毎週、神の言葉と新たな信仰を与えられて、生き生きとした信仰生活を送る群れでありたいと願います。

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